2015年06月02日

水戸浪士




 徳川慶喜
徳川最後の将軍十五代慶喜ほど私にとって評価しにくい人物はいない。幕末、薩長政権誕生のきっかけを作った鳥羽伏見の戦いで近代装備を持つ薩長とはいえ過少兵力に敗れ二条城から大阪城そして軍艦で戦場に残る幕府軍を見捨て江戸へ逃げ帰ってしまった行為がどうしても理解出来なかったからである。

大政奉還も新政府は政権運営に行き詰まり徳川を再び頼るだろうとの読みがあり決断したが、当時の薩長は秘密裏に連合を結び徳川自体の排除と壊滅を画策していた事を見抜けていなかった。
そして、展望の無いまま薩長の挑発に乗り戊辰戦争の戦端を開いてしまった。

敵を凌駕する海軍を天保山沖に展開させ、それなりの装備を持つ陸軍を鳥羽伏見の前線に揃えながら難なく負けてしまったのは、前線での総指揮をとる気概がなかったためである。後方の大阪城に詰めお妾さんと一緒の物見遊山的態度では、諸藩の離反を招く訳である。

その後の江戸無血開城、謹慎をへて慶応4年7月23日静岡に移り住んだ。当時の屋敷跡といわれる静岡駅前にある料亭浮月楼には一,二度宴会に訪れたことがあったが、感慨はなかった。
静岡ゆかりの人物というだけで、どうにも好きになれない歴史上の人物であった。
歴史にもし(if)は禁物だがもし幕府軍が鳥羽伏見戦で勝ち、また、砲艦の援護のもとで大阪城での徹底抗戦をしたら戦局はどう転んだか予測がつかなかった。

長引く内戦が西洋列強の干渉を生み国内は分割された植民国家になったかもしれずその観点からみれば日本および日本人の近代化にとっては彼は功労者であろう。
しかし将軍就任以前、在所である尊皇攘夷派水戸藩と開国を断行した大老井伊直弼との対立が決定的となった安政の大獄以降慶喜は江戸城出仕を禁じられている。それは、単純な尊王攘夷では立ち行かぬ日本の現実を見通す事が出来ていなかったことを為政者に見抜かれていたからであろう。

水戸浪士の襲撃で斃れ戦前まで評判の悪かった大老井伊直弼は日本の近代化の先駆けとして近年評価が増しているが反面積極的な慶喜評価論は出てこない。その理由は開国により国難の打解にむかった井伊直弼に対し慶喜を含む水戸派の行動は日本の現状や世界認識を持たない朝廷と公家達に悪戯に攘夷論を煽るだけのなんらの先見性を持っていなかったこととその後の展開が開国政策自体後戻り出来なくなっていたことにある。

この様な現状認識の甘さが逆に政治的立場を変えた薩長の連合を生み新政府の運営障害となる慶喜と幕府打倒に繋がっていった。この一事を見ても徳川慶喜に新時代を担う才能が無かったのではと思うのです。二人の側室に十男十一女を生ませ静岡に蟄居した後旧幕臣の困窮生活を尻目に趣味三昧にうつつを抜かしカメラを肩にかけ自転車で静岡の町を駆け抜ける極楽トンボでは評価できないし会津の白虎隊の少年達は何の大儀に死んでいったのだろうかとおもう。

写真左より軍服姿の慶喜、右へ側室の一人中根幸、列車は安倍川鉄橋と列車を慶喜が撮影したもの、慶喜屋敷跡 料亭浮月楼


  

Posted by jez13002 at 22:41Comments(0)